地球が「動く」とは、物理的にどういうことなのか ガリレオ・ガリレイ『天文対話〈上〉』(岩波文庫)レビュー
ガリレオ・ガリレイ『天文対話〈上〉』(岩波文庫)
『天文対話』は、プトレマイオスの天動説とコペルニクスの地動説を比較する、科学史上もっとも有名な書物の一つである。ところが岩波文庫の上巻を実際に読むと、少し奇妙な印象を受ける。地球が太陽の周囲を公転するかどうかがすでにヨーロッパの天文学者たちの大問題になっている1632年に、ガリレオはなぜこれほど長々と「地球が一日に一回自転していても、石はなぜ真下に落ちるのか」「鳥や空気はなぜ取り残されないのか」といった、一見するともっと初歩的な問題を論じているのか。上巻だけを読めば、地動説の本というより「地球自転擁護論」のようにさえ見える。
しかし、この違和感こそが『天文対話』上巻の歴史的意義を示している。地球自転という発想そのものは、ガリレオの発明ではまったくない。紀元前4世紀のヘラクレイデス・ポンティコスには、宇宙の中心に地球を置いたまま、それを一日に一度自転させることで天球の日周運動を説明する説が確実に帰されている。つまり「巨大な天球全体を毎日回す代わりに地球を回せばよい」という着想は、ほぼ二千年前から存在していた。16、17世紀にもこの古代説は知られており、ウィリアム・ギルバートは1600年の『磁石論』でヘラクレイデスらを地球自転説の古代の先駆者として明記している。
さらに重要なのが14世紀のニコル・オレスムである。オレスムは、地球が自転しているなら空気が取り残されて猛烈な風が吹くはずだ、真上に投げた石は地面が移動するため元の場所には戻らないはずだ、という古典的反論をかなり徹底して検討している。そして、地球だけでなく水や下層の空気も一緒に回転していると仮定すればよいと答えた。石や矢も、投げ上げられる以前から地球・空気と共通の東向き運動を持っているので、再び同じ場所へ戻る。さらに、動く船の中にいる人間には船自身の運動が感じられないという類比まで用いている。驚くほど後のガリレオに近い。しかしオレスム自身は、地球自転が可能であることを論証した末に、最終的には地球静止説を選んだ。彼が示したのは「自転していても観測事実とは矛盾しない」という可能性だったのである。
ここからガリレオの独自性が見えてくる。『天文対話』第二日の仕事は、「地球自転」という新奇なアイデアを発表することではない。古代以来何度も提出され、中世にはすでにかなり高度な反論防御まで与えられていた仮説を、**新しい物理学の中に埋め込むこと**にある。地球、空気、塔、人間、落下する石が一つの運動を共有しているなら、その共通運動そのものは内部の観察から検出できない。動く船室で水滴を落とし、虫を飛ばし、魚を泳がせても、船が滑らかに動いているか静止しているかは船内の現象だけでは判断できない。この考えは現代のガリレイ相対性原理そのものではない。ガリレオは一様な円運動まで静止と区別できないと考えていた。しかし、物体の個別運動を「系全体が共有する運動」と合成して考える発想は、近代力学の基礎に接近している。
だから第一日と第二日は一組として読む必要がある。第一日では、月面の山や谷、太陽黒点などを背景に、天界は完全で不変、地上界だけが生成消滅するというアリストテレス的区別が崩されていく。第二日では、その同じ物質からなる地球が実際に運動すると考えた場合、地上の物理現象がどう成立するかを説明する。第一日が「地球を天体の一つにする」仕事なら、第二日は「動く天体の表面で成立する物理学を作る」仕事なのである。現代のガリレオ研究でも、望遠鏡観測による天界と地上界の区別の解体と、すべての物質に共通する運動法則を求める彼の力学研究とは、一つの統一された物質観へ向かう仕事として捉えられている。
この点で、コペルニクスとの違いが際立つ。もちろんコペルニクスを「単なる計算屋」と見なすのは正しくない。『天球回転論』の本文を読めば、彼は太陽中心体系を単なる便利な仮説ではなく、惑星の順序や距離や周期が相互に結びついた実在的な宇宙構造として考えていたことが分かる。「仮説は真である必要はない」とした有名な序文は、出版を担当したオジアンダーが匿名で付したもので、コペルニクス本人の立場とは一致しない。それでもコペルニクスの革命の中心が、宇宙の「数学的構造の再配置」にあったことは確かである。地球を動かしたことで惑星の逆行、順序、公転周期を一つの体系として整理したが、「その動く地球の上で、なぜ石はこのように落ちるのか」を説明する新しい力学まで作ったわけではない。
ここに二つの異なる科学的態度が見える。コペルニクスの問いは、「天体の運動をどのような数学的配置に置けば、宇宙全体が整合的になるか」である。ガリレオの問いは、「その数学的宇宙が現実に存在するとしたら、物質はどのように運動しなければならないか」である。前者が宇宙の配置を組み替えたとすれば、後者は、その新しい宇宙の中で生きられる物理学を作ろうとした。この意味では、『天文対話』上巻が公転そのものより自転の物理学に多くの頁を費やしているのは、主題からの脱線ではない。それこそがガリレオ固有の仕事なのである。
もっとも、この「天文学を物理学にする」という方向でガリレオだけを孤立した英雄として描くこともできない。同時代のケプラーは、すでに1609年の『新天文学』の正式題名に「原因に基づく新天文学」「天体物理学」という意味の言葉を掲げていた。ケプラーは、惑星軌道を単に幾何学的に記述するだけでなく、なぜ惑星がそのように動くのかという物理的原因を求め、太陽から発する力を考えた。彼にとって太陽はもはや幾何学的な中心点ではなく、惑星運動へ実際に作用する物理的存在だった。したがって近代物理学の成立は「コペルニクス→ガリレオ→ケプラー」という一本線ではない。コペルニクスが数学的宇宙の骨格を組み替え、その宇宙をケプラーは天上側から原因論的・物理的なものへ変え、ガリレオは地上側から運動と物質の物理学を作り直した。この二つの流れが最終的にニュートンにおいて、落下する石と惑星運動を同じ力学で記述する体系へ合流する。
ガリレオ自身の研究史を並べると、『天文対話』上巻がその途中のどこに位置するかがさらによく分かる。
| 時期 | 主な研究・著作 | 理論上の変化 | 『天文対話』につながる意味 |
|---|---|---|---|
| 1590頃 | 『運動について』De Motu | アリストテレス自然学を批判しつつ、アルキメデス的な数学・比重論を利用して物体運動を説明しようとする | 新しい力学はまだ旧自然学の内部から始まる |
| 1594〜1600頃 | 『機械学』Le Meccaniche | momentoなどを使い、重さ・機械・運動を数量的に統一しようとする。自然落下が加速運動であることにも接近 | 運動を数学で扱うための概念を探索する段階 |
| 1602〜1604頃 | 振り子・斜面・自由落下研究 | 時間が運動を記述する基本量として浮上。落下距離と時間の二乗の関係へ到達するが、加速の概念化にはなお試行錯誤がある | 「場所」中心のアリストテレス運動論から「時間・速度」中心の力学へ移行 |
| 1609〜1610 | 望遠鏡、『星界の報告』 | 月面の凹凸、木星衛星などから天上/地上の物質的断絶を崩す | 地球も他の天体と同種の物質世界だという前提が強まる |
| 1612〜1613 | 浮体論、太陽黒点論 | 物質の数量的扱いを深め、運動状態が保存されるという慣性的発想を明確化 | 「動いている物体はなぜ動き続けられるか」への回答が形成される |
| 1632 | 『天文対話』 | 天界と地上の統一、共有運動、運動の合成、相対運動によって地球自転への古典的反論を解体 | 動く地球が物理的に可能であることを体系的に示す |
| 1638 | 『新科学対話』 | 自由落下、時間、加速度、慣性的運動、投射運動を数学的に体系化 | 『天文対話』で必要とされた「動く世界の力学」が独立した学問として結実 |
この表を見ると、『天文対話』を単なる「地動説擁護の名著」と呼ぶだけでは歴史的意義をかなり取り逃がすことが分かる。ガリレオ以前にも地球自転説はあった。ヘラクレイデスはそれを宇宙モデルとして提出し、オレスムは空気や投射物が地球と共同運動すると考えれば観測事実と矛盾しないところまで論じた。コペルニクスはさらに地球を太陽の周囲まで動かし、天文学の数学的体系を根本から組み替えた。それでもなお、「その動く地球が物理的世界としてどのように成立するのか」という問題が残っていた。
ガリレオが『天文対話』上巻で延々と地球自転を論じる理由は、そこにある。彼が証明しなければならなかったのは「地球を回すという数学的仮定も可能である」ということではない。**地球が本当に回っている世界でも、石は落ち、鳥は飛び、空気は流れ、人間は何も異常を感じずに生活できる。そのことを一貫した物理学として説明できるか**という問題だった。
そしてこの意味で『天文対話』は、天文学史だけに属する本ではない。むしろ、数学的な宇宙模型を「物質が実際に運動する世界」へ変換しようとした書物であり、近代物理学的な視座が姿を現す瞬間を記録した本である。
もちろんガリレオの物理学はまだ完成していない。彼は慣性的運動を完全な直線運動として定式化せず、円運動を特権視した。地球の公転と自転から潮汐を説明しようとした理論も誤っている。しかし、その不完全さこそ歴史的には重要である。ここにあるのは完成後の古典力学を過去へ投影した教科書ではなく、アリストテレス的自然学から抜け出しながら、新しい物質観、新しい運動概念、新しい数学的方法を一つずつ作っている現場だからだ。
コペルニクスが「地球を宇宙の中で動かした」とすれば、ガリレオは一段違う問いを立てた。では、動いている世界の中で物理学はどうすれば成立するのか。 ケプラーが同時期に天体運動へ物理的原因を要求した仕事と合わせて考えると、ここで天文学は単なる天体位置の幾何学から離れ始める。天上にも地上にも同じ物質と運動の法則があるはずだという視座が生まれ、その問いがやがてニュートンによる地上力学と天体力学の統一へ向かう。
岩波文庫『天文対話〈上〉』が意外なほど「自転の話」に見えるのは、したがって弱点ではない。むしろそこにこの本の核心がある。太陽中心説という新しい宇宙図を掲げるだけなら、コペルニクスがすでにやっていた。ガリレオが必要としたのは、その宇宙図の内部で**物が本当に動けることを示すこと**だった。
『天文対話』上巻は、地動説を説明した本というより、地動説を可能にする物理学が生まれようとしている本として読むほうが、はるかに面白い。
コメント
コメントを投稿