革命という一枚絵を剥がす トーマス・クーン『科学革命の構造』再読
『科学革命の構造』は、科学についての見方を変えた本である。
科学とは、観察された事実が少しずつ蓄積され、それに応じて理論が改良されながら真理へ近づいていく営みである。そうした素朴な科学観に対して、トーマス・クーンは、科学には「通常科学」の時期と「科学革命」の時期があり、革命によって研究者が問題を見る枠組みそのものが変わると主張した。
パラダイム、通常科学、アノマリー、危機、科学革命、通約不可能性。
いまでは一般語に近くなったこれらの概念が与えた影響はあまりにも大きい。1962年に刊行されたこの本以前と以後では、科学史について語るための語彙そのものが違っている。
その意味で本書が重要な古典であることには疑いがない。
しかし、60年以上を経た現在から読み返すと、別の印象も強く残る。
クーンは科学革命を発見した。しかし、その「革命」をあまりにもきれいな構造にしてしまったのではないか。
この疑問を考えるうえで面白いのが、コペルニクスとガリレオの違いである。
クーンは『科学革命の構造』以前、1957年に『コペルニクス革命』を書いている。したがって彼の科学革命像の背後にコペルニクス研究があると考えるのは自然だろう。実際、『科学革命の構造』の基本的な構図は、コペルニクス革命を遠くから見たときの姿とよく似ている。
地球中心の宇宙から太陽中心の宇宙へ。
古い世界像から新しい世界像へ。
同じ天体を見ていても、その意味や位置づけまで違って見える。
クーンが科学革命をゲシュタルト転換になぞらえたのも、このような宇宙像の反転を考えれば理解しやすい。『コペルニクス革命』は1957年、『科学革命の構造』は1962年に刊行されており、クーンの科学史研究が後の哲学を準備したことは現在の研究でも確認されている。citeturn288547view0turn710825search2
ただし、コペルニクスとガリレオでは研究の性格がかなり違う。
コペルニクスを単なる計算技術者と呼ぶのは正しくない。彼自身は太陽中心体系を現実の宇宙構造として考えていた。しかし彼の主要な仕事は、惑星の配置と運動を数学的に再構成し、地球を惑星の一つとして宇宙体系の中へ置き直すことだった。地球が実際に動くなら地上の物体はどう振る舞うのか、そのためにはどのような力学が必要なのかという問題について、新しい物理学を完成させたわけではない。citeturn710825search37
ガリレオになると問いが変わる。
地球が回転しているなら、なぜ塔から落とした石は真下に落ちるのか。
なぜ空気は置き去りにされないのか。
なぜ鳥は飛べるのか。
なぜ動く船の中でも、静止した船と同じように物体を投げたり水を落としたりできるのか。
ここで必要なのは宇宙の配置図ではない。運動そのものについての理論である。
だから『天文対話』を読むと妙なことが起こる。本来はプトレマイオス体系とコペルニクス体系を論じる本なのに、上巻のかなりの部分が石、投射運動、船、空気、落下といった問題に費やされている。
しかしこれは脱線ではない。
地動説を「数学的に可能な宇宙モデル」から「物理的に存在可能な世界」へ変えるためには、物理学そのものを作り替える必要があったのである。
ここから見ると、コペルニクス革命を典型として作られた「パラダイム転換」という像が少し怪しくなってくる。
試みに『科学革命の構造』の主要な主張を十ほど取り出し、1590年頃の若いガリレオから1687年のニュートン『プリンキピア』までの史実にぶつけてみると、そのことがよく分かる。
一つの旧パラダイムが科学共同体を支配していた、という命題は部分的にしか当てはまらない。アリストテレス自然学、プトレマイオス天文学、アルキメデス的数学、実用数学や機械学は、すでに異なる研究伝統として併存していた。ルネサンス期の「アリストテレス主義」自体も一枚岩だったわけではない。citeturn710825search24
通常科学が既存の枠組みの中でパズルを解くという指摘はかなり当たっている。異常な観測が一つ現れた程度では体系は崩れないという指摘も非常に強い。1610年以後、望遠鏡による観測が古い宇宙像に深刻な問題を突きつけても、ティコ・ブラーエ型の体系によって多くを吸収することができた。
しかし、「アノマリーの蓄積によって危機が生じ、危機の中から新パラダイムが現れる」という時間順序はかなり怪しい。
実際の科学史では、新しい装置や新しい理論が登場したために、それまで存在しなかったアノマリーが初めて見えることがある。望遠鏡は典型である。旧体系が危機に陥ったから望遠鏡が生まれたのではない。望遠鏡を空へ向けた結果、木星の衛星や月面の凹凸が現れ、それまで問題でなかったものが突然問題になった。
原因と結果が逆流しているのである。
「危機の時代には複数の候補理論が競争する」というクーンの描写はよく当てはまる。17世紀にはプトレマイオス、ティコ、コペルニクス、ケプラー、デカルトなど複数の宇宙像と自然哲学が競争した。
だが、それなら危機はいったいいつ始まり、いつ終わったのか。
コペルニクスの1543年からニュートンの1687年までを危機とすれば、危機は150年近く続くことになる。しかも1687年に『プリンキピア』が刊行されたからといって、ヨーロッパの自然哲学者が翌日から一斉にニュートン主義者になったわけではない。
「通常科学、危機、革命、新通常科学」という輪郭は、時間の解像度を上げるほどぼやけていく。
ガリレオ個人の研究史を見ると、それはさらに明確になる。
1590年頃の『運動について』のガリレオは、まだアリストテレス的な問題設定の内部にいる。同時にアルキメデス的な数学を導入して、その内部から自然運動の説明を改造している。
1604年頃には自由落下について距離が時間の二乗に比例する関係へ到達している。しかしその結果を得たからといって、加速という概念まで即座に現代的な形になったわけではない。
1610年には望遠鏡観測によって天界と地上界を本質的に別物とする区別を崩していく。
1632年の『天文対話』では共通運動と相対運動について驚くほど近代的な考えを提示する。
そして1638年の『新科学対話』で、自由落下、加速、投射運動などがかなり統一された形になる。ガリレオ研究では、こうした変化が何十年にも及ぶ連続した研究の結果だったことが明らかになっている。citeturn710825search4
では、ガリレオが「新パラダイム」に転換した日はいつなのか。
1590年では早すぎる。
1604年でもまだ古い概念が残っている。
1610年では力学が完成していない。
1632年のガリレオは相対運動を論じながら、自然な慣性的運動を円運動として考え、地動説の証拠として誤った潮汐理論を重視している。
1638年を選べばかなり完成に近づく。しかし、それは突然の転換というより半世紀の研究の集積である。
「パラダイム転換の日」は見つからない。
ガリレオの思考は、古い船を港で廃棄して新造船へ乗り換えたようには変化していない。航海しながら船板を一枚ずつ交換し、別の船から部品を持ち込み、気がついたときには最初とはかなり違う船になっていた、と考えるほうが近い。
それでもクーンが鋭いところは残る。
特に「科学革命後には、同じ現象の意味そのものが違って見える」という指摘である。
アリストテレス的な自然哲学者にとって、振り子は拘束された落下運動の一例として見える。ガリレオにとっては周期性を持つ運動として見えてくる。クーン自身、この例を使って観察の理論負荷性を論じていた。citeturn288547view2
天界と地上界、自然運動と強制運動、重さ、惑星、運動、力。
17世紀を通じてこれらの概念の意味と関係が大きく変化したことは否定できない。
また、理論選択には単純なアルゴリズムが存在しないというクーンの指摘も強い。金星の満ち欠けは古典的プトレマイオス体系には打撃だったが、それだけでコペルニクス体系を証明したわけではない。ティコ体系も同じ現象を説明できた。
つまりクーンは、「革命が終わったあと、旧科学と新科学のあいだにどれほど深い概念上の距離が生まれているか」を描くことには非常に成功している。
弱いのは、その距離がどのように作られたかという生成過程の説明である。
ここが『科学革命の構造』を現在読み直すときの最大のポイントではないかと思う。
クーン自身もその問題に気づいていた。
1969年の追記では、曖昧すぎると批判された「パラダイム」という概念を、ディシプリナリー・マトリックスや具体的な問題解決の模範としての「例題」に分解した。その後も通約不可能性をより限定された言語的・分類学的問題として考え直し、後期には巨大なパラダイムが丸ごと入れ替わる像より、研究分野が分岐し専門化していく進化的な科学発展へ関心を移している。現在の研究では、後期クーンは「革命」より「発達的エピソード」を語るようになり、科学を以前ほど単一の巨大パラダイムによって統合されたものとは考えなくなったと整理されている。citeturn288547view0turn497372view1turn497372view2
この自己修正は重要である。
しかし、現在の科学史はさらに遠くまで来ている。
そもそも「17世紀に一つの科学革命があった」という枠そのものが疑われるようになった。現在の科学史研究では、中世からルネサンス、近世への連続性が大量に見いだされ、理論、方法、観測装置、実験実践、社会制度、学問の地位など、異なる種類の変化を150年ほどの一つの「革命」にまとめること自体が還元的ではないかと問題にされている。citeturn497372view0turn710825search11
日本語圏でこの問題を考えるとき、山本義隆の一連の仕事は一つの極端な到達点だろう。
『磁力と重力の発見』は、万有引力という概念が成立する以前に、遠隔作用する力そのものがどのように考えられてきたかを古代から掘り起こす。
『一六世紀文化革命』は、17世紀科学革命の前提として、印刷、国語形成、大航海、職人や技術者の著述、手仕事と理論知の接近という社会的・文化的変化を追う。山本自身、16世紀に起こった複数の変化を一つの「文化革命」として初めて科学史的に位置づけられると論じている。citeturn609569search1turn609569search3
『世界の見方の転換』では、コペルニクスだけを英雄にするのではなく、数学的天文学が自然哲学に対して地位を上げ、観測と数学によって宇宙の実在構造について発言する資格を獲得していく過程そのものが描かれる。出版社が「学問上の下剋上」と表現しているのは、この点である。citeturn609569search0
さらに『重力と力学的世界』まで進めば、ニュートンが『プリンキピア』を書いたところで現在いう「ニュートン力学」が完成したわけではなく、ダランベール、ラグランジュ、ラプラスらによるその後の数学的再編成まで必要だったことが示される。citeturn609569search5turn609569search6
こうして見ると、「科学革命」という出来事の内部に、いくつもの異なる革命が入れ子になっている。
知識を作る人間が変わる。
知識を流通させる技術が変わる。
理論知と職人知の関係が変わる。
数学の学問的地位が変わる。
観測の証拠としての価値が変わる。
宇宙像が変わる。
物質観が変わる。
運動概念が変わる。
力の概念が変わる。
それらが別々の時間尺度で進み、ときに互いを促進し、ときに互いを邪魔しながら、数百年後から見たとき初めて「近代科学」という形を取る。
この解像度から見ると、『科学革命の構造』をもう一度書き直すことは、おそらく不可能である。
一冊では足りないからだ。
そして、そのこと自体がクーン以後の科学史が到達した一つの答えなのだと思う。
『科学革命の構造』の最大の功績は、科学史について最終的に正しい構造を発見したことではない。
科学を「正しい知識が少しずつ蓄積される歴史」として書くことを不可能にしたことである。
その扉をクーンが開いた結果、研究者たちは本当に歴史の中へ入っていった。
するとそこには、クーンが描いたような一つの旧パラダイムと一つの新パラダイムが向かい合ってはいなかった。
アリストテレスとアルキメデスがいた。
オレスムがいた。
職人がいた。
航海者がいた。
印刷業者がいた。
コペルニクスがいた。
ティコがいた。
ケプラーがいた。
ガリレオがいた。
デカルトがいた。
ニュートンがいた。
そして彼らの一人一人の中にも、古い考えと新しい考えが同時に存在していた。
『科学革命の構造』は、その豊かな歴史を説明し切れない。
だが皮肉なことに、その豊かな歴史を見えるようにした最大のきっかけの一つもまた『科学革命の構造』だった。
だからこの本はいま読んでも古びてはいない。
ただし、科学革命についての完成された理論として読むべきではない。
むしろこれは、科学史の解像度を劇的に上げた結果、最終的には自分自身の「構造」まで疑われることになった、非常に生産的な失敗として読むべき本なのだと思う。
クーンが描いた革命の地図は粗かった。
しかし、その粗い地図を持って歩き始めたからこそ、そこに描かれていなかった山脈や谷や無数の脇道が見つかった。
現在、その地図を書き直そうとすれば一枚では収まらない。
何冊にもなる。
おそらく、それこそが『科学革命の構造』を六十年以上後の現在から読み直したときに見えてくる、最もクーン的であり、同時に最もクーンを超えた結論なのだろう。
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